名主、組頭、其他の村役、家族をはじめ家の子郎党、小者まで膝を揃えての見送りである。歓送の準備が
なり、庭先で送り火を焚くと、鶏が火の立ち上がりに刻を告げ、馬もつられていなないた。
木蘭の花が咲き、桃が開いて風に舞う。木々が芽吹いて香り漂い、山雀小雀が鳴き渡る五月晴れである。
母屋の中の談笑が恩讐(おんしゅう)を越えた男の語り合となって、見送る人々の心をそそる 。客室の上座
に勘四郎と与市の両名が並び、一同楽しく朝立ちの膳をたいらげた。勘四郎の顔は明るく、与市の額の傷
(数日前にわさび苗をわさび田から秘かに盗もうとして村人に見つかり抵抗した際できたもの)は、僅かに
傷跡を残すのみであった。
庄屋の望月庄兵衛が代表して「御両名様には、半年の長きに渉り駿河椎茸の栽培に誠心込めての御指導を賜り、
有東木村六十五戸を総代して厚く御礼を申し上げます。 この村は、慶長年間に武田の残党が集まって同九年
(1604年)に村開きをしてより此方、わさび栽培一筋に村を築いて参りましたが、今後は椎茸(しいたけ)の
収穫により一層に富み栄えるものと思います。この日を記念にしまして社を祭り、村人の励みといたしまして、
御両名様の御志に報いんものと思います。」と告げ、言葉を切った庄兵衛は、傍らの二ふりの刀を手にとって改
め、 懐紙(ふところがみ)で拭って鞘に収め、勘四郎の前に差出した。
「この刀は、当家に代々伝わりました御先祖望月六郎左衛門の守り刀でございます。また此れなる 刀は宮原宋次郎宅
に伝わりましたもの。一振りは板垣様、こちらは与市殿に、共に道中守護差としてお納め願います。」
両名の前に引出された業物は、金銀べっ甲をちりばめた名の有る刀である。勘四郎と与市は共に押し戴いて恐縮した。
「これにて旅立ちの万端は整った。いざ、茅野(かやの)(庄兵衛の末娘)、用意の物をこれに持て。」
庄兵衛の声にはっと立ち上がった茅野が、水屋のあたりからうるしの膳に乗せた、麻布包を二包持ち来たって、
うやうやしく勘四郎と与市の前に置く。言葉使いを改め、膝を正した庄兵衛が、「御両人殿、只今よりこの地を出発いたし、
犬岩、ゆう岩を下に見て坂を下れば見返り岩が道のほとりに腰をすえ、銭苔岩松を岩一面に着けております。川の流れ
が急になりドンと下って水が逢う、渡本(どもと)に出ればすでに安倍川。柳が緑の色を増し、川原の小石が銀となる
吊橋(つりばし)を渡った処で村をはずれる去年の秋の安倍川は、川原一面秋の花、今はタンポポ、スミレの頃、見事
に開く藤の花、川瀬に垂れて咲く辺りに、汲(く)めども果てぬ清水が湧いております。湧き清水をば汲みとって、喉を
潤し昼食とされよ。お手元にある麻包みは、我が家一同、心を込めて炊き込みました弁当なり。 あいや何さ、何の馳走
(ちそう)か解らぬけれど、 天城の衆の飯となれば・・・アハハハハハ・・・くれぐれも村を外れて使われよ。しかと
心得られよ。 皆の者っ、御両名様の出発だ。勢揃いしてお見送りもうせ。」
「おう」と揚がる一同の声に、鶏が盛って刻を告げる。あの顔、この顔も見納めかと、互いに目と目を交わす中に、切なく
むせる茅野の顔が、目にいっぱい涙をため、こらえがたく、涙が幾筋も頬に伝わり、とめどもなく流れていた。
はしたないかと気にしながらも、ひたむきな女心の一筋に、昨日の夕、宵月の光も淡い丘に与市を 誘い、男の本心を
ただした口説に、 意外や与市の言葉は冷たかった。
「茅野さん、俺あ嬉しい、あんたの志は有難いが・・・だが、駄目だ。天城の与市には、やらねばならん仕事がある。
茅野さん、俺あ、盗人をしてまでもと、思い詰めたわさび沢作りの仕事だ。たとえ一沢だけでもわさびが茂らなかったなら、
女も不要、女房もいらぬ。男の生涯命を果たす覚悟を決めました。何日できるとは限らぬ天城のわさび、何年かかるか解らぬ
わさびその日まで待てと言われぬ私の立場、いっそ綺麗さっぱり諦めてください。」
と言うが否や、与市は茅野に背を向けて、弾丸のように、うす闇の中をつっ走て行ってしまったのである。
涙が流れる目の前を与市が歩く。天城に帰る与市の姿がとめどもなく流れて茅野の頬をつたう露の玉に映った。
つらい切ない女心に一声鶯が鳴く。人の心を読むように、一声・一声と静かに鳴く有東木(うとうぎ)の山鶯(やまうぐいす)に、
山にこだまが棚引(たなび)いていった。
川の流れに添って下る両人の菅笠(すげがさ)姿が遠ざかり、かすむ与市の背に、みかんの苗木(庄屋から送られたもの)が
揺れている。見返り岩を右に見て、大きくSの字に曲って下り、有東木川の瀬水口の渡本を過ぎ中平山を仰ぎつつ、真富士(まふじ)
山の麓を踏み、吊橋を渡って村境を過ぎた。
「勘四郎様、安倍川はきれいな川ですね。名主様のお言葉のように、銀を敷詰めたような川原石、 もう親村の大河内を出
はずれました。」
「そうだ、辺りの山の風光に心を奪われ、いつ中平(なかひら)を過ぎたやら、あれ、あそこに湧く清水が川の 中に注いでいる。
なるほど見事な藤の花だのう・・・ はて、今朝方、名主様のお言葉に、喉潤して昼食の弁当!天城の衆の飯となれば・・・そのお言葉
の意味は!そうだ若しや、くれぐれも村境を越してと言った謎言葉は、ううむ。ここは有東木の村ではない。与市、背中の弁当を開いて
みよ。」
包を解く手ももどかしげに麻の包を開いて、一つづつ手にした竹編籠。息を止め、二人が同時に蓋を取った。
中身を見た。与市は大きく目を開き、勘四郎は胸いっぱいに息を吸った。それもそのはず、籠いっぱいぎっしりと隙
間なく詰め込んであるわさびの苗が、やっと息づいたというように、山河の香りをふくいくと漂わせていた。
二人は、今来た有東木村を遥かにのぞみ、肩を並べて座った。両膝を地につき、手の籠を置いて吐息(といき)を漏
らし、どちらともなく合掌した。顎紐(あごひも)を解き菅笠を脱いだ。川原の小石の上に笠を置き二人は頭を低く垂れい
つまでも平伏していた。 余りのうれしさに二人の男は、感謝と感激とで胸が震え、口から出る言葉もなかった。
我にかえった与市が苗入り籠を抱きしめ「わっ、わっ、わさびの苗だ、わさびの苗だ、わさびの苗だ。」
まるで狂人のように叫んだ。
勘四郎は誓った。
「村を外れてからと言われ、念押しされた謎のお言葉、天城の飯となればとさりげなく言った添え言葉に含まれていた意味。
あっうれしい名主様・・・板垣勘四郎、 これから全生涯をかけて天城の山にわさびを育て、伊豆半島の山村が栄える道を拓きます。
岩をかみ、石にかじりついてでも必ず一念を貫いてお志に報い申します。」
「さあ与市、籠を納めて出発だ。」
ホトトギスが一声後青葉の中から飛び立ち、空に一線を描いて安倍の川原を渡る。勇み立った二人が川を下って行く道に
タンポポスミレの花が咲き、五色の椿の花燃える昼下がりであった。
寛延三年(1750年)五月十日、駿府町奉行所の白洲(しらす)に名主望月庄兵衛(66歳)、 板垣勘四郎(64歳)、与市(29歳)、
茅野(庄兵衛の末娘21歳)、 駿河屋伝兵衛(当時訴訟事案の関係者を宿泊させた宿の経営者) 一同が平伏(へいふく)している。
※物語では1750年2月ころ、与市と茅野は勘四郎立会のもと、仮祝言をあげ、その後茅野は 湯ヶ島に与市と一緒に住み3人の子宝に恵
まれたとなっている。現在の湯ヶ島地区に「与市坂」「茅野平」という地名があることから2人は実在の人物の可能性が高い。なお、
板垣勘四郎は実在の人物で、板垣家では勘四郎の椎茸、炭焼き、わさび等の功労で地区から、89年間にわたり年金を送られた。
やがて、警ひつの声で一同一斉に頭を下げる。
「駿州・安倍郡・有東木村名主・庄兵衛、豆州・湯ヶ島宿・板垣勘四郎、並びに、証人として豆州・湯ヶ島宿・与市、同庄兵衛の
娘茅野、証人付添いとして駿河屋伝兵衛、面を上げい。」との声に一同、頭を上げると、
今まで空席だった上座に威厳を正した中年の武士が座っていた。明るい白洲から見上げる座敷の中は
薄暗く見えて容貌はしかとは見えなかったが、どっしりと落ち着きを見せた肉付き豊かな人物である。その武士が静かな眼差し(まなざし)
で白洲を見下して口を開いた。
「将軍家おそば役・大岡忠光(大岡越前の一族で実在の人物、将軍は何を言っているか聞き取れないほど病弱な人物であったため
側近として仕え、将軍の言葉を理解できた大岡忠光の指示が天下に対する命令となった。 老中よりも力があった人物と言われ、
この裁判の裁定のため将軍の指示 で駿府に来たもの)、 只今より上意を以て取り調べを行う。 皆の者、神妙にいたすよう。」
「ははっ」と一同再び頭を下げる。
「苦しうない、一同、面を上げよ。」
忠光は、勘四郎らに向かってそう言うと、居並ぶ人々に向かって
「この度の事は、畏れ(おそれ)多くも東照公様の御名にかかわる大事ゆえ特に将軍家におかせられても遺漏なきよう十分に吟味
致せとの御指示であった。 よって、忠光、故事典礼に拘わる(かかわる)ことなく存分に吟味致す。左様心得るよう。」
と言い置いて、再び白洲に視線を向けた。
「勘四郎、並びに庄兵衛、その方らの口書はすでに当奉行所に於いて見聞きいたしたが、少々心得ざる所あり。よって忠光、
直々に吟味致す。特に直答さし許すによって包み隠すことなく申し立てるよう。まず板垣勘四郎、その方、山守の職にありながら
何故に掟をないがしろに致し、御禁制のわさび苗を有東木村より持ち出したか。さだめし所存あっての事であろう。その所存を申
してみよ。」
忠光の言葉に対して、勘四郎はやおら上体を起こした。端然と背筋を伸ばし、両手を膝に置いて忠光を見上げる彼の眼に決心の光が宿る。
「恐れながら申し上げます。私の故郷・湯ヶ島の百姓は、毎年のように水害に苦しんでおります。何分にも山深き所、田畑も少なく、米、
麦の収穫も乏しう御座りますゆえ、一度、災害にあって作米を失えば飢え死ぬより御座りませぬ。私もこの有様に心を痛め、炭、椎茸と
心を砕き(勘四郎は当時の炭焼技法を改善し2倍の炭が採れる工法や椎茸栽培の技法を開発した先駆者でもあった。)、百姓衆の暮らし
向きを豊かに致そうと努めてまいりましたが、今だに水害に遭って路頭に 迷う人物が跡を絶ちませぬ。
たまたま、三島代官の斎藤様のお言付けにて有東木村に参りましたところ、初めてわさびを目に致しました。聞けば大層お金になるとの
こと。これを伊豆の地に移し植え、天城のお山にわさびが育つようになれば、村は富み栄え、治山治水の道も開けようと心得まして伊豆
にわさび苗を持ち帰りましたる次第で御座います。
もとより、御禁制の品とは心得ておりましたが、これにより、伊豆の民百姓が栄え、水の災いよりまぬがれますれば、末は天下のため、
ひいては公方様の御ためと心得、敢えて御禁制を破りましたるもので御座ります。
一点も私心は御座りませなんだが、掟(おきて)は掟、承知で破りましたる上は如何なる罪に問われようとも覚悟はできております。
ただ、この度のこと、ひとえにその責めはこの勘四郎に御座ります故、何卒、庄兵衛殿をお許しくださるとともに、お上の御慈悲をも
ちまして今後、伊豆天城にてわさびの栽培お構いなし、との仰言をたまわりとう存じます。
そのお許しさえいただけますればこの勘四郎、東照公様の掟破りの大罪人として死罪、獄門はおろか、逆さはりつけ、鋸引きもいといま
せぬ。
何卒、この勘四郎の胸中御賢察くだされてこの段、お聞き届けくだされたく、伏して願い上げ奉る次第で御座りまする。」
一言一言語るに従って熱を帯びた勘四郎の言葉は、五臓六腑からほとばしり出る男の誠心に触れ、並み居る人々も思わず胸を衝かれ、
忠光も眼を伏せて聞き入った。
その時、俯いていた与市がばっと身を起こした。
「大岡様に申し上げます。」
思いがけぬ大音声に警護の役人が慌てて「ひかえよ!場所柄をわきまえぬか!」と叱咤するものの与市は聞かず、声張り上げて叫ぶ。
「大岡様、勘四郎様の仰言ることは違います。もとはと言えば、 この与市がわさび沢に入り込み、 御禁制を承知でわさびを盗み出した
のが事の起こり・・・。」
と、言いかけるのを制した有東木の庄兵衛が、
「いや、それもまた違います。大岡様、板垣殿にも与市にも罪はありませぬ。私はお二人にわさびを村外不出とは申しましたが、
東照公様のお声がかりとは申しませなんだ。東照公様の掟と知りつつ破ったと申される板垣殿のお言葉は、この庄兵衛に罪を着せまい
との心遣い(こころづかい)。まこと、掟破りの張本人はこの私で御座います。何卒、この庄兵衛の白髪首をお打ち下さって伊豆の衆を
お許しくだされ。」
「いいえ、違います。」父の言葉に顔色を変えた茅野が叫んだ。
「父は何も知りません。私が一存で弁当の包にわさびを・・・。」
「何を言う茅野、気でも狂ったか。すべては私のやった事、おそろしいお咎めを受ける掟破り。何で女子供に手伝わせるはずあろうか。
大岡様、娘は取り乱しておりまする。何卒(なにとぞ)、お聞き流しくださいませ。この庄兵衛こそ、真の罪人に御座りまする。」
騒然とした白洲を見下して大岡忠光は鋭く一喝した。
「ひかえよ!そのように口ぐちに申し立てては吟味がならぬ。」
はっ、と平伏する一同を尻目に、忠光は駿府町奉行所の役人に向き直った。
「誰かある。証拠の品をこれえ。」
「はっ」 と答えて、吟味与力がわさびを載せた二つの三宝を忠光の前に運んで来た。忠光は三宝のわさびを一つづつ手に取り、
仔細(しさい)に眺めながら「これなる品が有東木村より取り寄せたもの。また、これなるは板垣勘四郎の育てしものであるな。」
「御意(ぎょい)に御座ります。」吟味与力が四角張って頭を下げる。
「この二つのわさび、いささか違うようであるが・・・。」
「恐れながら申し上げます。そのいずれも正真証明のわさびにて、いささかも違いは・・。」
恐る恐る言上する与力の頭上に忠光の一喝(いっかつ)が落ちてきた。
「ひかえよ!その方、明きめくらか。これ、このように有東木のものは二握を超え、伊豆のものは一握半に足らぬではないか。」
「恐れながら。」と勘四郎が白洲から口を入れた。
「それは、私の栽培の腕前未熟にて育ちが足りませぬゆえで御座ります。もとはまさしく有東木より・・・。」
「ひかえよ!勘四郎、吟味に差出口は許さぬ。」
忠光は、一言のもとに勘四郎の口を封ずると、庄兵衛に向かって問いかけた。
「庄兵衛、その方の娘とやらが先程、弁当包とか申しおったが、その方、勘四郎に弁当をつかわしたのか。」
「はっ、板垣殿主従が有東木村より出立のみぎり、弁当の竹籠をしつらえ、その中にわさび苗を・・・。」
「竹籠を編み、その中に弁当をつめて、つかわしたと申すのだな。」
「いえ、弁当で御座りませぬ。弁当に見せかけましてわさびの苗を・・・。」
「ひかえよ!たわけ者め。何時の世に弁当代わりにわさびを食する者があろう。庄兵衛、そちは年のせいにてもうろくいたしておるの。
どうじゃ、確かに竹籠入りの弁当を二人につかわしたのであろうな。」
「は、はい。」念を押されて、庄兵衛は思わず頭を下げる。
「さて、勘四郎、その方ら二人、庄兵衛より弁当を受け取りいかがいたした。包み隠さず申してみよ。」
「はい。」
勘四郎は面を上げて忠光の顔を見つめた。いかめしく威儀(いぎ)を正しているが忠光の二つの眼には優しい光が浮かんでいる。
勘四郎ははっと胸を打たれたが、踊る胸を押さえて
「いかにも仰言のとおり、有東木出立(しゅったつ)のみぎり、庄兵衛殿より心尽くしの弁当をいただき、村を はずれた川の瀬あたりに
清らかな山清水が湧くゆえ、その辺りにて昼食にされよと親切な言葉まで・・・。」
「うむ、それで。」
「庄兵衛殿の言葉に従い、山清水の湧くほとりにて心尽くしの弁当を開きましたところ・・・。」
「中にわさびの苗が入っていたと申すのだな。」
「仰言のとおりに御座ります。」
「ふーむ、庄兵衛の手渡せしは確かに昼食の弁当包、それが、勘四郎が開いて見た時にはわさびの苗と変わっておったとは・・・。
さては、その方が一途に伊豆の民を思い、わさびを求むる心根に天も感じ給うて弁当の飯をわさびに変え給うたのであろう。
かく申さば、いかにも不思議の話のようなれど、かかる例は我が国にてはいにしえより少なからず。昔、美濃の国の養老の滝の水が
孝子の一念天に通じて酒となりし伝えもあり、決してないこととは申されぬ。さればこそ、これなるわさび、有東木のものと、
伊豆のものといささか違うも納得がいくと申するもの。これにて忠光の不審も解けた。」
「有東木の庄兵衛は勘四郎に弁当包を手渡せしのみなれば、東照公の掟を破りしお咎めは毛頭ない。また、勘四郎の手に渡りし後、
弁当包の中に生ぜしわさびは天意によるものなれば、もとより咎(とが)むべき筋のものではない。両名とも構いなし。早々国も
とへ立ち帰るがよかろう。」
忠光の言葉に一同、思わず頭を下げた。さすが当世第一の出頭人、名奉行の名も高い大岡越前様の御一門だけあって血も涙もある
見事なお裁きと、勘四郎・庄兵衛の二人が胸中ひそかに感涙(かんるい)にむせべば、一方若い与市と茅野の二人は嬉しさをこらえき
れず大粒の涙を白洲の砂利に落として、声をしのんですすり泣いている。その四人の上に大岡忠光の明るい声が流れる。
「さてさて、庄兵衛といい、勘四郎といい長年の間、民百姓のために身を粉にしての働き、感服のいたりである。その方どもの名はかし
こくも上聞に達し、西の丸の大御所(隠居した徳川吉宗)様よりも、この度のことに関し、特に御言葉があった程であるぞ。かかる奇特
の者どもゆえ、天も加護をたれ給うたのであろう。忠光、近頃嬉しい話と聞いたぞ。これより後も心して民百姓の力となってくれるよう
しかと頼んだぞ。 申し遅れたが、勘四郎、伊豆に於けるわさびの栽培、天より苗をさずかりたるものなれば、もとより何の構いなし。
この後も随分と出精致し、有東木村に劣らぬわさびを天城の山に植え育てるよう。一件落着の上は、皆の者立ちませい。」
警ひつの声とともに大岡忠光は奥に姿を消した。夢から覚めたように面を起こし、天を仰いだ勘 四郎ら四人の眼に五月晴れの空が
今更のように青く眼にしみて見えた。
有東木在住わさび農家望月健治氏が著者のご親族の了解を得て別のHP上に掲載したものを、管理人が望月氏の了解を得て再転記さ
せていただきました。わさび栽培の歴史を知る上で参考となれば幸いです。
有東木と伊豆山葵
山葵田 '03.6.15
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「有東木村誌」に「今より260年前頃、有東木の人、望月
三右衛門の先祖が、伊豆の人よりしいたけ栽培法を教わり、
伊豆の人に山葵栽培法を教え、この伊豆の人により天城山麓
地方へ山葵栽培を伝え、伊豆山葵の起源となった。」と書か
れています。
野木治郎著「天城の山の物語」の中に伊豆山葵の開拓秘話が
書かれており、村誌の記録に照らして史実性があるので概略
を記してみます。
「有東木の名主庄兵衛家は、当時村外に出してはならないお
きてとなっていた駿府禁制の山葵苗を、有東木部落に駿河し
いたけの栽培を指導してくれたお礼と、板垣勘四郎と与一の
全生涯をかけての天城の山に山葵を育て伊豆半島の人々の栄
える道を開こうとしている熱意に感心して、『板垣主従、有
東木村出達の折、弁当の竹かごの中に弁当に見せかけわさび
苗を忍ばせた。』後年の寛永初年、奉行所の発見するところ
となり、駿府における山葵訴訟裁判となる。当時名奉行の名
の高い大岡越前守の一門忠光の裁判。「弁当がワサビに変わ
った。」「伊豆の人々を思い、わさびを求むる心根に天も感
じ、弁当の飯をわさびに変えてしまった。」「美濃の国の養
老の滝の水が孝子の一念が天に通じて、酒になりたるに同じ
。」「有東木の庄兵衛は勘四郎に弁当を渡したもので、東照
光のおきてを破ったものではない。また勘四郎もまた渡りし
弁当包みの中にわさびのあったのは天意によるものなれば、
もとよりおきてを破りし筋のあるものではない。」
この物語も、有東木山葵を伝える伊豆山葵の起源を確証する
資料となるでしょう。
引用:空すめる郷−静岡−大河内
わさび栽培の適地
東ン沢 '05.11.5
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なんといってもわさび栽培の要件は水であるといわれています。
その水質は強酸性の湧水、たとえば酸性白土を有する山間の
湧水は不適であるといわれています。なお塩分の多いものは
発育を害し、養水の優劣は無機質肥料成分量の多少によると
いわれ、一番必要なものは窒素であるわけです。
養水の適温は摂氏10度から17度で9度以下では発育は抑
制され、18度以上では発病しやすくなります。
さらに、直射日光や外気の影響により水温摂氏20度を超え
る心配のある場合は樹木等をもって、日光をさえぎるように
します。有東木の沢に行くと山葵田に樹木を植え陰樹として
日光をさえぎるようにしてあり、また黒い布網を張ってある
のが見られ、陰樹には主にハンの木を植えています。
適水としては、湧水で四季を通じて水量に増減のないこと。
渓流の引水で摂氏10度から17度を保ち、石が渋色がつき、
飲んで嫌味を感じることがなく、セリ、フキ、イタドリの生
育する水で、山の五合目以下の湧水、これは水量、肥料成分
のある点でよいのです。これらの条件を具備しているのが有
東木周辺の山葵田であり天恵の地というわけです。
有東木の沢は四季を通じてすばらしい。特に夏の日、山路を
歩き、道ばたの山葵田をながめ、その清冽な渓流の水を飲む
と一度につかれがいやされます。
引用:空すめる郷−静岡−大河内
わさび成長記録 2008年11月〜2009年11月
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| 植付直後 2008.11.15 |
1ヶ月後 2008.12.13 |
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| 2ヶ月後 2009.1.12 |
3ヶ月後 2009.2.14 |
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| 4ヶ月後 2009.3.15 |
5ヶ月後 2009.4.12 |
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| 6ヶ月後 2009.5.16 (4/26 寒冷紗) |
7ヶ月後 2009.6.13 |
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| 12ヶ月後 2009.11.8 (収穫前) |
12ヶ月後 2009.11.21 収穫中 |
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| 収穫風景(1) 2009.11.23 |
収穫風景(2) 2009.11.23 |
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| 【調整作業前】この状態から根の上数センチの所で茎を切り落とす。茎は「切茎(キリグキ)」として売られ、
主にわさび漬けの材料となる。根は髭根を取って右の「根(ネ)」として売られる。髭根を取る作業は根気仕事である。 |
毛を取った根 |
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| 根(1篭2kg、数字は本数) |
切茎(キリグキ) |
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| 2kgずつ箱に詰める |
翌朝JA集荷場へ AM 7:12 |