地理・歴史
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有東木の概観
有東木遠景
有東木遠景
有東木は静岡駅から安倍川に沿って三十数キロ北上し、渡本で安倍川本流を離れ支流の有東木沢に 沿って曲がりくねった道を3km程上った標高500〜600mの山間に展開する七十数戸の集落である。有東木沢は 有東木の入り口で東西に分かれる。この東西の沢に挟まれた部分に有東木の中心がある。北と東西の三方を山に囲まれ、 道路も有東木が終点で先には通じていない。
このような比較的外部との交流の少なかった地理的環境が「伝統行事」を長く継承させ、あるいは 「町内会活動」等において自他ともに認める有東木の結束力の強さを育んだ要因なのかもしれない。
現在は静岡市であるが昭和44年以前は安倍郡大河内村であった。大河内村の中心は平野で、現在 も小中学校、郵便局、診療所などの公共施設は平野に集中している。しかし静岡市街地まで車で50分足らずの ため仕事を始め、医療、教育、買い物等生活全般について毎日マチと関わっている。
産業は従来農業、林業が主体であった。特に「わさび」と「お茶」が主要作物であった。とりわけ 「わさび」は「わさび栽培発祥の地」として江戸時代から生産が盛んである。しかしバブル崩壊後は価格の低迷が続き わさび農家にとっては死活問題となっている。更に追い討ちをかけるように本山茶として安定取引されていた「お茶」 も価格が下がりつつある。このため純粋な専業農家は数えるほどになってしまった。
したがって現在は主たる収入は給与所得という世帯がほとんどなのである。ただしそれら給与所得世 帯であってもほとんどがわさび田と茶園を所有している土地柄である。「わさび」と「お茶」を退職後の仕事と決めている 人が多い。
農産物の価格低迷の他に有東木の大きな課題がもう一つある。高齢化、人口・戸数減、後継者不足、 つまり「住人が居なくなってしまうこと」である。七十数戸の中身を見ると、後継者の居ない高齢者世帯が多く 近い将来の戸数激減は確実な状況である。このため、いくつもの地域活性化策が試みられているが、今のところ大きな 成果がみられず、戸数減に歯止めがかかっていないのが実情である。

有東木マップ
有東木マップ

有東木の標高
青笹山
地蔵峠
葵高原(ハイキングコースの案内板付近)
NTTDocomo
東雲寺
公民館
うつろぎ
集落排水処理施設
1,558m
1,414m
   912m
   620m
   570m
   555m
   520m
   425m
有東木の標高の記載は、その資料によりまちまちである。概ね500〜700mの 範囲で記載されてはいるものの「有東木の標高は?」と聞かれた時、正しい答えがほしいと思う。
上記有東木の概観では500〜600mとしている。斜面に展開している集落である からこのような表現になってしまうのである。例えば公民館の標高とか、うつろぎの標高とか2、3箇所 のポイントを知っていれば答える時の信憑性がます。

1/2万5千
上の表をみると、500〜600mもまんざらでもない。しかし上を少し上げて500 〜650mでもいいような気もする。覚え易さも考慮すれば、まぁいいか、といったところである。ポイ ントで言うなら『有東木は550m』を推奨したい。2万5千分の一の地図を見ると、50m毎に太く表 示される550mの等高線が有東木で最も密度の高い所や公民館・JA付近を通過しているからである。 思っていたほど高くないという印象である。
標高で面白く思うのは、標高の僅かな違いで天候が変わることである。管理人は有東 木の中では標高の高い所に住んでいる。冬の出勤時、我が家付近が雪なので心配して出掛けると、村内を ほんの少し下っただけで雪が雨に変わることを何度も経験した。
霧でも同じようなことが言える。梅雨時、有東木は数メートル先が見えない濃霧に包 まれることがしばしばある。しかし、この濃霧は渡本の県道まで続くことはけっしてない。集落排水処理 施設付近までくると霧は薄くなり、県道付近では全くなくなっている。極端に言えば有東木は雨でも、県 道付近は曇り程度なのである。('03.3.23)

有東木の四季
蕗のとう
は夕暮れ。 暦の上の立春は気温はまだまだ低く、とても春とは言えないが、この時期、日の入りが遅くなり、 冬至の頃は午後4時半には暗くなっていたのが5時半頃まで明るい。いわゆる光の春である。気 温は低いのに日が延びたと感じる夕暮れに「春」を感じる。有東木では「小正月」の時期である。
実際の春は、蕗のとうが出始める3月上旬から始まり、わさびの花茎を収穫する3月〜4月、 3月末にツバメの姿を見て、入学式に合わせたかのように桜が満開となる4月上旬、そして遅霜 の心配がなくなる4月20日頃までである。一番茶の始まる5月は既に初夏である。
あさがお
は早朝。有東 木に住んでよかったと思うのが真夏の早朝である。川のせせらぎ、 小鳥のさえずり、ひんやりした清々しい空気、芋の葉に転がる朝露の玉...。
都会は熱帯夜という日も有東木では布団なしでは寝られない。真夏もクーラーなしで熟睡できる。
夕立も夏の風物詩である。暗雲立ち込め、稲光、ガラス戸をビリビリさせる雷鳴、大粒の雨。しかし 長くは続かない。少し辛抱すればまた真夏の青空が戻ってくる。打ち水した後のように涼風が吹く。 「夏」らしくていい。
落ち葉
は夜。秋雨 の時期を過ぎ晴天が続く10月上旬、大陸からやってくる空気は秋の香りを含んでいる。月明かり、 ススキの原に響く虫の音、家々の明 かりにほっとし、感傷的になったりするのが秋の夜長である。
初秋は、運動会、秋季祭典と明るさがあるが、風が冷たくなる晩秋ともなると、寂しさが増す。日 も短くなったと感じる頃、冬支度に入る。夏の間外していた障子戸を入れたり、こたつを出したり。
雪
は朝。有東木 にいてちょっとつらいのが冬の寒さ。とは言ってももともと暖かい静岡のこと、これを寒いなどと言 っては北国の方に笑われる。
水溜りに張った氷、白い息、ザクザクと踏みしめる霜柱、垣根の山茶花。一冬数回降る雪は子供ばか りでなく大人だってちょっとうれしい。

有東木の始まり
結論は「確かなことはわからない」ということになってしまう。ここではいくつかの説、言い伝えを併記することにする。
@ ここは、大昔、泥の海だった。そこにムギヨドリ(セキレイ)がやって来て、尾をチョンチョンと動かして土地を固めていった....。 これは、伝説、神話の世界である。そういう言い伝えがあったということを知るにとどめる。
A 大阪の役(1614〜1615年)で敗れ落人となった真田幸村の家臣、望月六左衛門と いう人がこの地にやって来て、大樹のウロを住家とした。そのため字名を「うとろ木」 と名付けた。六郎左衛門の長男、望月五兵衛が代々名主を務める家になった。   出展は有東木で代々名主を務めた家の当主が大正元年に書いた「先祖伝説誌」である。
  しかし、この内容は有東木に残る最古の文書「慶長検地帳(1604年)」と矛盾する。1615年の大阪夏の陣で敗れ逃げてきた人が、1604年に有東木で名主でいることはできないからである。
B 慶長検地の行われた1604年を相当さかのぼる今川、武田の時代に、金の採掘のため六郎左衛門という人が住み着いた。
そして検地の行われた1604年には、23名の百姓が住み東雲寺がある村となっていた。
この説は中村羊一郎先生の研究による。
Aの先祖伝説誌、近隣の金採掘の歴史、白髭神社の記録などから推論している。
このことは「平野・有東木の盆踊り」に詳しく記載されている。
C 武田の落人という説も聞いたことがある。 たしかに地理的には近いから説得力があるが、活字になったものは見たことがない。

有東木の年表
西暦 和歴 日本史 有東木史
      今川、武田の時代に、金の採掘のため六郎左衛門という人が住み着いた
1560 永録3 織田信長、尾張桶狭間に今川義元を襲撃.義元(42才)敗死   
1573 天正1 武田信玄没(53才)   
1598 慶長3 豊臣秀吉没(68才) 慶長年間(1596-1615)にわさび栽培が始まったとされる。    
1600 慶長5 東軍、美濃関ヶ原に西軍を破る
1603 慶長8 家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く
1604 慶長9    23戸(慶長検地帳)
1605 慶長10 家康征夷大将軍を辞し、秀忠、これに任命される   
1607 慶長12 諸大名の普請役で駿府城の修築成り、家康、これに移る 駿府城に移った家康にわさびを献上したとされる。
1614 慶長19 家康、大坂征討を命令する(大坂冬の陣)   
1615 元和1 家康、再征を命令(大坂夏の陣).大坂落城.秀頼(23才)淀君ら自殺.   
         大坂の役で敗れた真田幸村の遺臣、望月六郎左衛門が落人となって有東木に住んだという説あり
1616 元和2 家康没(75才).久能山に葬る   
1644?
1645?
正保1    西側の字ショウジンダル、東側のワンザシ・ヤイガレ山が一時に崩れだし、当時の人家28戸のうち25戸倒壊。
東雲寺も倒壊。
1650 慶安3    27戸
1687 貞享4 幕府、生類憐み令を出す   
1697 元禄10   32戸
1701 元禄14 3月、播州赤穂藩主浅野長矩、江戸城中で高家吉良義央を傷つけ、切腹、改易される   
1702 元禄15 12月、赤穂浪士大石良雄ら、吉良義央を討つ   
1703 元禄16 2月、幕府、大石良雄らに切腹を命ずる 大洪水
1707 宝永4 富士山噴火、宝永山できる   
1715 正徳5    33戸(男85、女95)
1720 享保5    大洪水
1722 享保7    平野の盆踊りに、締め太鼓の皮張替の記録あり
1744 延享1    伊豆の板垣勘四郎が椎茸栽培を教えるために有東木に派遣され3ヵ月滞在、帰る時に山葵苗を持ち帰る
1769 明和6    44戸(男147、女125)
1803 享和3    東雲寺本堂再建
1852 嘉永5    52戸(男177、女191)
1867 慶応3 将軍(慶喜)、大政奉還上表を朝廷に提出
坂本竜馬(32才)、中岡慎太郎(30才)、京都で暗殺される
朝廷、王制復古を宣言
  
1868 明治1 明治と改元し、一世一元の制を定める   
1876 明治9    62戸(男226、女195)
1953 昭和28    95戸(601人)
1969 昭和44   1月1日、安倍六ヶ村静岡市合併
1982 昭和57   集中豪雨により有東木沢氾濫、壊滅的被害を受ける。
2000 平成12   76戸 277人(男134人、女143人)
2005 平成17   4月1日、政令市、葵区有東木となる。
2005 平成17   71戸 251人(男123人、女128人)

昭和57年の集中豪雨
災害復興之碑
碑
建碑の辞
有東木沢は江戸の昔から豊富な清流を利したわさびが栽培されており静岡わさびのふるさとである。
昭和57年7月31日〜8月3日、台風10号が当地を襲い、未曾有の集中豪雨(降雨量1,008粍) にみまわれ、沢は逆巻く濁流と化し、わさび田、茶畑を押し流し、道路や橋梁を破壊し、被害総額は20億円余 に達し壊滅的打撃を受けた。
今ここに有東木沢は2年半の年月と13億余円の巨費を投じた災害関連事業によりかつての流れを一新し甦った。
これは国、県、市の絶大なる支援、工事施工業者の献身的努力、町民の土地への強い愛情に支えられた協力と理解が結集した成果である。
川を愛し地域を育て復興に尽力した人々の功績の証としてここに碑を建つ。
昭和60年3月20日

地名の由来
秋空  '05.9.12/梅雨空  '03.6.15
有東木中央部
昔林業を営む人、大木の窩(むろ:あな、あなぐら)で夜を過ごし宿り、この木を ウツロ木といい、なまってウトロ木となり、ウトウ木となったと言われています。
引用:空すめる郷−静岡−大河内
「有東木」は『うとうぎ』と読みます。アクセントは平坦です。「地球儀」のアクセント にならないように注意してください。

慶長検地帳
有東木全景
有東木全景
有東木に残る最古の文書は慶長9年(1604)の検地帳である。 これには全部で23名の百姓の名があるが、うち4名は屋敷を持たず 、他の19名のうちの誰かの土地の一画に住まわせてもらったりする 使用人のような地位にあった。しかし平地の稲作地帯のようにずば抜 けて広大な田地を所有する百姓はおらず、何よりも田が一片も無い土地 であり、各人の名で登録された畠も、面積からいえば微々たるもので あった。
引用:平野・有東木の盆踊り


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