- 大人の香り
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有東木分校に通っていた小学3、4年生頃の記憶である。薄暗くなって、
ようやく遊びを終え家に帰る途中、仕事帰りの大人とすれ違うことがよくあった。
すれ違い座間私の後ろに去って行く人からかすかな香りが漂う。それは、山の土と木
の香りだった。決して不快な香りではない。大人の香りであった。自分もやがて
そういう香りをさせる大人になるのだろうと思っていた。
- 夏の終わり
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お盆が過ぎると夏も終わり。子供の頃も今もそう思う。お盆は8月16日のオマルマキ
を最後に終わる。
夏休みの宿題は前半に片付け、後を思い切り遊べたらいいなと思いつつ
小中通して一度も実行できなかった。いつも30日、31日が勝負なのである。
お盆の終わりは、まだいいやと思っていた宿題の憂鬱が重く圧し掛かってくる時
なのであった。
暦の上の秋、立秋は既にお盆の前に過ぎているだけあって、残暑の中にも
秋の気配が感じられるようになるのもお盆が終わる頃からである。
帰省した人たちで賑わった盆踊り、はしゃぎ回ったお寺の本堂。大人も子供
もお盆の一時、現実を忘れ過ごしたけれど、いつもの生活に戻るのである。
お盆が過ぎると夏が終わったんだというどうしようもない寂しさに包まれる。
- 太陽と麦藁
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自分の記憶はいつまで遡れるものだろうか。弟が生まれた時の記憶がある。
それが年月のはっきりしている記憶の最も古いものである。4才6ヵ月。それ以外
の記憶はいつのものかはっきりしない。4才6ヶ月より古い記憶もあるかもしれない。
何れにしても、その頃の記憶は、太陽と麦藁の匂いがする。懐かしい匂いである。
- 常会のお菓子
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常会は毎月決まって20日の夜にある。これは昔からずっと変わらない。私の父
は普段はあまり喋らず面白くも怖くもなく、子供としてはうれしい存在ではなかった。
しかし常会から帰って来た時の父だけは、少しだけ好きであった。常会はしばしば軽い
お酒を伴う。常会から帰った父は顔を赤く染め、この時だけはニコニコしていた。そし
て子供が大好きなお菓子も持ち帰ってくるのである。常会が遅くなった時は翌朝、卓袱
台の上にお菓子があった。そんな父とお菓子を楽しみにしていた時代があった。
- 有東木のゴキブリ
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かつて有東木にゴキブリはいなかった。これは事実である。ただし現在
はいる。私は中学を卒業し静岡市内の高校に通うため市中心部に下宿するまで、ゴキブリを見た
ことがなかった。
これは、有東木が標高が高く冬期の気温が低いためではないかと推測する。
室内でも氷点下になることは、かつてはよくあった。成虫のまま冬を越す
(?)ゴキブリにとっては住み難い所であったのかもしれない。ところが近
年住宅事情が良くなり冬期も室温が保たれるようになったことに加え、自動
車の普及によって物流が盛んになり、積荷と一緒にゴキブリ君が運ばれてく
ることが多くなったことによるのではないかと思われる。
それでも、まだ少ないほうではないか。
クモやトカゲやヘビやカエルは平気な私も、ゴキブリは苦手である。
- 通学
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有東木〜渡本間3kmを通学のため毎日1往復歩いたのは私達が最後である。
小学5年生のわずか1年間であったが思い出多い。
雨の日や雪の日はどうしたのだろうと思うのだが、もう覚えていない。
当たり前だが、傘を差して通っていたのだろうとしか言えない。朝は何時に出て
帰りは何時だったのかも、もう思い出せない。
辛かったという記憶はない。楽しかったという印象が強い。
帰りは有東木に登る車の荷台によく乗せてもらった。車自体が多い時代ではなかった
から、だいたい乗せくれる車は決まっていた。バスを待つ時間、河原で魚捕りをしたこともあった。
土曜日の帰りがウキウキして楽しかったような気がする。教科書を忘れたのが先生に見つかり、
罰として平野の学校から家まで本を取りに戻ったこともあった。
時代は移り、通学はもちろん、大人であれ子供であれ今この道を歩
く人はいない。人が歩くことがなくなった道は完全に風化してしまった。
- 手作りプール
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有東木分校にも、本校にもプールはなかった。夏休みになると現「うつろぎ」
の少し上にある橋の上流部に父兄が沢(ヒガシンザワ)を堰き止めた臨時のプールを作ってくれた。
沢の両岸に届く丸太や孟宗竹を幾本か渡し、その丸太に縦の補強を何本も入れ、上流側からムシロや
ビニールを張って流れを堰き止めた。
川幅5〜6m、奥行も同じくらい、水深は1m位だっただろうか。「泳ぐ」というよりは「水遊び」という
感じだったと思う。水中眼鏡でヤマメを見たり、石の上から飛び込むなどして遊んでいた。川の水は冷たく
唇が紫色になるまで遊んでは、近くにあった空き地に行って日光浴しながら冷えた体を温めた。
- 分校の先生
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分校に赴任した先生のための住宅(正式な名称は覚えていない)が分校に隣接
してあった。現在は消防団詰所になっているところである。1、2年生と3、4年生の複式学級なので
先生は二人だったか三人だったか?。一人の先生は大河内に在住の方で自宅から通勤しておられた。もう一人の
先生が教員住宅に入っていた。分校に赴任する先生は有東木分校が初任地という方が多かったようである。
自炊だったのだろうか。土曜日の午後などにそこにお邪魔してご馳走してもらったり、遊ばせてもらった
りしたものである。今あの先生はどこにおられるのだろう。
- 運動会
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子供が一番好きな授業は体育である、と一般には思われているようである。しかし、
それは違う。管理人は体育が一番嫌いであった。したがってその最たる催し、運動会は大嫌いであった。分校
の運動会は下渡の本校でやった。運動会が近づくと、お腹でも痛くならないかなー、風邪でもひかないかなー、
雨が降ったらいいのになー、などと良からぬ期待をしていたものである。しかし、残念なことに丈夫な管理人の
期待どおりになったことは一度もなかったし、仮病を使うほどの度胸もなかったため毎回イヤイヤ出場するの
であった。当時、今のような運動シューズはなく運動会といえば何故かゴム底の足袋を履いていた。小さな石
ころを一つ踏んでも痛かったような気がする。あの足袋、近頃ついぞ見たことがない。('02.9.22)
- 分校の給食
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分校には給食用の厨房があった。しかし完全給食ではなく、「ごはん」だけは弁当箱
に詰めて持って行った。弁当箱の多くはアルミ製の楕円形で表には漫画のキャラクターなどが印刷してあった
ように思う。冬になると、弁当が冷たくなってしまうため、先生の心配りで弁当の保温器が登場した。多分先生
の手製で電気炬燵か何かを改造したもののような気がする。(間違っていたらすみません)。その温かくなったお弁当
と、給食のお姉さんが作ってくれたおかずとミルクで給食をいただいた。お姉さんが退職するにあたってお別れの
挨拶があった。男の子は大丈夫だったが、周りにいた女の子がシクシクと泣き出したのを覚えている。('02.9.22)
- 組の旅行
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町内の組単位で行く旅行。昭和40年代前半が最も盛んだったのではないか。子供時代
の旅行(遠出)の記憶イコール組の旅行だった。車はお金持ちのものだった時代、家族で行った旅行はそれだけ
である。行先は浜名湖の潮干狩りとか鎌倉とか熱海とかである。貸切バスの日帰りである。静岡県の
人ならだれでも知っている有名なコマーシャルソングで知られた「熱海の後楽園」などは何回も行っているかも
しれない。自分は楽しみにしていた。毎年行っていた組の旅行も、現在は数年に一回の一泊旅行となり、
子供のためというよりは、大人たちの親睦が目的に変わってきた。費用を毎月常会で集め積み立てるのは昔と変
わっていない。('02.12.29)
- 読書感想文
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体育も嫌いであったが、もっと嫌いなものが「読書感想文」であった。
国語の授業や夏休みの宿題としてやれねばならないことが何度もあった。そもそも何を書けばよいの
かわからない。荒筋を書いたってしょうがないし、題材になるくらいの本はそれなりの有名、優秀な
小説家が書き、一定の評価を得たものであるから小説としての出来不出来を論じてみても始まらないし、
餓鬼にそんなことわかるはずもない。面白かった、主人公は立派だ、大したものだ、自分もそうなりたい、
と一行書けば終わりなのである。しかし四百字詰原稿用紙2枚だ3枚だという。結局荒筋を書いて、
ここが立派、また荒筋を書いて、ここも立派を繰り返し埋めるしかないのであった。('03.2.8)
- 幼い日の悟り
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多分小学校入学前の5才頃の記憶である。よく、おもちゃ屋さんの前であれが
ほしいとお母さんに泣きじゃくりながら駄々をこねる子供がいる。そんな感じで、ある朝炭焼きに行く
親父について行くと言い張って駄々をこねた。当然そんなものを連れて行ったら仕事にならないから、
親父とお袋はあの手この手で諦めさせようとした。いつもと違う道(方向)から出掛けてうまく巻くという
手段に出た。そんな手に引っかかる自分ではない。とうとう、親父とお袋のほうが諦めて結局連れて行って
くれた。途中は覚えていない。次のシーンは、炭焼き釜から焼けた炭を運び出し、まがりなりにも
手伝っている自分であった。幼心にも悟ったことは、人に言われいやいややることは大変で続かないものだ
が、自分が好きで始めたことは、傍目には大変なことでも、本人は苦にせずできるものなのだ、ということ
である。('03.2.9)
- 高一の春
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毎年桜の咲く時期になると思い出す情景がある
私は高校から静岡市の中心部にある下宿屋さんにお世話になった。今思うと初めて
の親元を離れての生活、大きな学校での生活、町の生活等に対し不安と期待で一杯であっ
たろうと思う。そんな中で新しい生活を始めるための準備をする。新しい教科書、カバン、
学生服、目覚時計。そして引越し。
下宿屋さんは浅間神社のすぐ近くにあった。母屋の土間を通り抜けた奥にある離れの
二階の四畳半が私の部屋だった。近くに公園があって、そこの大木の新緑が屋根の向こうで
高く陽光に揺れていた。
15才、新生活、春。それらがひとつになって、明るく希望に満ちた情景となって
思い出されるのである。
そんな記憶が自分の中にあるということは何かの救いになる気がする。('03.2.9)
- 夜が怖い
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田舎のトイレは屋外にある。夜になると一人ではトイレに行けない。そういう子供だ
った。闇夜には幽霊か妖怪がいると思った。よく言えば想像力が豊か。そう思えるほどこちらの夜は暗
くて静かである。静けさを表現するのにシーンとする、という。夜、布団に入って息を潜めると物音一つしな
い。それどころか『シーン』という音が聞こえてくる。耳は精巧にできたマイクロホンのようなものである。
周囲の音がなくなると耳の持つノイズが聞こえてくるのだろう。
そんな時、遠くを走る車の音が聞こえるとほっとするのだ。
そんな子供だったから、夜の『ぎりっかけ』や『十五夜』は苦手だった。('03.2.9)
- シャナイツウカ
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今路線バスはワンマンが当たり前だが(ワンマンという言葉すら知らないが)、小学5年生に
なってバス通学を始めた昭和44年頃は車掌さんがいた。バス停近くに来ると車掌さんが「シャナイツウカ」と
言うことに気が付いた。その頃は意味もわからず聞いていたが、ワンマンになってだいぶ経ってから意味を知った。
バス停にバスが止まるのは乗るお客さんがいる場合と降りるお客さんがいる場合である。乗るお客さんの有無は
運転手さんが見る。降りるお客さんのことは運転手さんにはわからない。したがって降りるお客さんがいないこと
を「車内通過」と言って運転手さんに知らせていたのである。降りるお客さんがいる時は「次は○□、停車願います」
と言っていたようだ。('03.2.15)
- 産婆さん
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私は自宅で生まれた。急に産気づき病院が間に合わなかったためではない。昭和33年
頃は自宅で産婆さんに取り上げてもらうのが普通だった。昭和37年生まれの弟も産婆さん組である。その日のこと
は幽かに覚えている。大人たちの様子がいつもと違う。夜になって赤ん坊が生まれるのだと知った。障子の穴から
そこを覗こうとしたら大人に叱られたことを覚えている。翌朝赤ん坊がいた。赤ん坊が最初にする大便は黒い、と
言って見せてくれたような気がするが、今もって本当なのか知らない。('03.2.15)
- お茶摘み
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お茶摘みの風景は都会の人にはのどかに見えるかもしれない。しかし、実際やってみるとかなり
きつい仕事である。根気仕事なのである。朝早くから夕方まで、ただひたすらお茶を摘む。お茶の丈が低いと中腰に
なる。これが慣れない人には苦痛である。すぐ腰が痛くなる。初めの頃は手にマメができる。マメが潰れると絆創膏
を貼って摘まなければならない
子供の頃手伝わされたが、籠1杯くらいが限界だった。早く一杯にならないかなー、と思い始め
るといつまで経ってもお茶は溜まらない。大人になってからもサラリーマンの休日仕事にやる茶摘は未だにきつい。
('03.5.18)
- 秋の一日
調度今頃。夏は完全に過ぎ去り、冬にはまだ間がある、暑くもなく寒くもない秋の日。
天気の良い平日の日中、ポツンと公園の陽だまりに身をおく。普段なら、会社のデスクでカリカリ
仕事をしている時間である。いつか、どこかで体験したことのある香り、空気、時間を感じる。そう、
ずっと昔である、何の心配もなく、全てを親に任せて生きていた幼い日の懐かしい時間である。('04.10)
- 掃除のBGM
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有東木分校では毎朝掃除をした。バケツの水と雑巾が掃除道具である。床板を濡れ雑巾がけしていた。
そんな時間に構内放送で音楽を流した。曲は「エリーゼのために」とか「白鳥の湖」、「スケーターズワルツ」、
かと思えば「双頭の鷲の旗の下へ」などという勇ましい曲もあった。選曲は児童自らやっていた。('04.10)
- 山椒の実
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小学4年生の時、担任の先生にしてやられた思い出がある。先生に、ある木の実を「食べてみろ、旨いぞ」
とかなんとか言われ、何の疑いもせずその実を食べた事がある。苦く、舌先が痺れ、食べられたものではな
かった。その実は直径3mmくらいだった。それが山椒の実であることを知ったのはずっと後のことである。先生
にからかわれたのであった。('04.10)
- インスタントラーメン
有東木には食堂がなかった。だからラーメンを食べたのはインスタントラーメンが最初であった。
初めてお店のラーメンを食べたのは、高校生になってからである。初めて食べたラーメンは不味かった。
といっても、そのお店の味が不味いのではない。これはラーメンの味じゃないと思ったのである。
幼い時覚えた味を人は一生引きずるなんてことを聞いたことがあるが、その例である。('04.10)
- 渡本〜有東木は3km
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分校の四年生の時だった。暑くて先生にアイスをご馳走になった事が印象に残っているから
夏である。なんのためだったか、授業だったのか、日曜日か夏休みだったか定かでない。渡本から有東木
までの距離を巻尺を使って先生と子供達で計測した。巻尺は巻き取り式の30mか50m程度のものを使
っていた。50mずつ進んで記録し、その回数で全体の距離を出すという極めて原始的な方法だった。
その結果が3kmだった。端数もあったはずだが忘れてしまった。渡本〜有東木間を約3kmと私が言う
のはそのためである。('04.11.21)
- 台風と停電とロウソク
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不謹慎と思われるかもしれないが、小さい頃は台風が来ることを期待するようなところがあった。台風が来ると
いつもは揃わない家族が雨戸を締め切って少し暗くなった家の中に日中から集まり、通り過ぎるのを待った。停電でも
しようものならロウソクが登場し、灯りを囲んでを顔を寄せる。そんなところがうれしかったのだろう。('05.9.11)
- First Love
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先日久し振りに中学の同級会があった。しばらく忘れかけていた記憶が蘇った。38年前のことである。
分校の10人が、南・北小学校統合のため一緒になって、新5年生がスタートした。
10人が36人のクラスになった。新しい友達の名前を覚えようと、ノートの余白に席が近かった一人の
女の子の名前を繰り返し書いた。家に帰り、それが姉に見つかり冷やかされたが、否定した。しかし何時
しかそれは、ほんとう、になっていた。初恋なんて言えないほど、淡い淡い思い出である。('06.3.2)
- 借りて来た猫
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小学3、4年生頃が私の人生の黄金時代と言っていいかもしれない。その後は付け足しのようなもの。
それはともかく、その頃はガキ大将で我が物顔で野山を遅くまで駆けずり回っていた。
3年生の時の運動会だった。自分は3年生で分校、姉は5年生で本校に通っていた。運動会は本校で行う。
有東木分校から運動会にやって来たわんぱく小僧が目についたのかもしれない。しかも、それが本校に通って
いる女子の弟だと知ったのだろう。そんな姉弟をかわいいいと思ってくれたのか、本校のある先生がそれから
しばらくたった日曜日、自宅(中平にあった教員住宅)へ二人を招いてくれた。その先生は新婚だった。
夫婦で歓迎してくれた。部屋には軟らかくて厚いカーペットが敷いてあった。家具も新しい物ばかりだった。
先生は運動会で見かけた山のわんぱくな子供を期待し、奥さんにも見せたかったのかもしれない。
しかし見たこともないそんな部屋で、初めて口にする料理を目の前にし、すっかり日頃の精細を失い借りてきた猫
のように大人しく黙り込んでしまった。
先生には済まないことをしたと思うが、今となってはよい思い出である。今でもその時いただいた甘く
ミルクの香りをさせたクリームの味を思い出すことがある。('06.3.28)