あとがき
有東木分校閉校 記念誌 表紙より
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1958年(S33)、有東木に生まれた。幼い頃の記
憶と言えば炭焼きの仕事をしていた父の後に着いて炭焼き小屋のあっ
た山に行ったこと、川に落ちて危うく溺れそうになり母に助けられた
こと、蜂に刺されたこと、石の上から落ちて頭をぶったこと、藪の中
で木の枝で目を刺してしまったこと、近所で農作業を見ている内に石
の上で眠ってしまったこと、大きなセミが恐かったこと等々全てが野
山での体験である。それもそのはずで、私達の年代は保育園というも
のに行っていないのである。したがって小学校へ入学するまでは野山
が遊び場であった。
1964年(S39)4月、調度東京オリンピックが開
催された年、私は大河内村立大河内北小学校有東木分校に入学
した。分校では4年生まで学び、5、6年生になると片道5kmの山
道を歩き下渡にある本校まで通うことになっていた。分校の授業は当
時生徒数が1学年10人前後であったため、複式学級であった。1、
2年生、3、4年生がそれぞれ一つの教室で、一人の先生に教わるの
である。
私達が5年生になった1968年(S43)4月に、過
疎化による児童数の減少に伴い南・北小が統合され、私達は平野にあ
る元南小学校に通うことになった。3kmの山道を渡本まで歩き、そ
こからバスに乗って平野まで通った。ここで学校名は大河内村立大
河内小学校となった。さらに翌年の1969年(S44)1月1日、
大河内村を始めとする安倍六ヶ村の静岡市合併に伴い、学校名は静
岡市立大河内小学校となった。そして同年4月、有東木バス開通に
より、6年生になった私達は3kmの徒歩通学から開放されバス通学と
なった。そして、ついに翌年の昭和45年3月、有東木分校は閉校とな
ったのである。
こうして今、学校だけのことに限って振り返ってみても、
昭和40年代のこの地域の変化は激しいものであったとことがわかる。
先生方はもちろん、PTA、町内会など関係者の方々のご苦労は計り知
れないものがあったに違いない。当時子供の私達はそんなことは知る由
もなかったが、大人になった今、そのような方々のお陰で今日があるこ
とに深く感謝せずにはいられない。