明治になって新暦(太陽暦)が採用されますと、新暦の七月十五日では、日本人の大部分にとってはとても都合の悪い時期で
ありました。なぜなら、当時の国民の八割近くは農業に従事していたからです。七月は、農家にとって一年中でもっとも忙しい
農繁期となり、ゆっくりとご先祖さまのご供養ができませんでした。ですから八月十三日から十六日までの、月遅れのお盆に
多く行われるようになったのです。
(2004.8.18 資料『お盆の心』発行:大本山總持寺出版部より)
施食会(せじきえ)の意義
'03.8.16
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有東木では近年まで『施餓鬼』と呼んでいました。
平成十六年八月十四日の『施餓鬼』において、和尚様が東雲寺の属する宗派では
『施食会』と呼ぶことに統一したこと、『お盆の心』にも
施食会について解説がある、とお話がありましたのでここに掲載します。
施食会は、本来一年中行われている法要ですが、お盆の法要の一環として行われることが多い行事です。
施食会の由来は、お釈迦様の十大弟子の一人、阿難尊者
が、無縁の精霊に供養すべく棚を設け、山海の食物を供え、
多くの僧によって回向したのが始まりです。
現在では、ご先祖様への報恩供養として営まれています。私たちは、ご先祖さまをはじめとした多くの精霊に供養する
施食会を通して、地球上の全ての生き物に支えられていることを一度ゆっくり考えてみたいものです。
(2004.8.20 資料『お盆の心』発行:大本山總持寺出版部より)
いつからやってるの?
'03.8.15
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何百年も前からという言い方をするけれど、正確にはいつから始まったのか知りたいと思う。しかし有東木にはそれを
示す資料は全く存在しない。盆踊りの詩章の書き留めも明治以後のものしか残っていない。
この問いは村 の起源とも関連する。有東木の最も古い資料は1604年の検地帳である。この時、有東木は23戸の村として
存在していた。この時盆踊りがあったか定かではない。有東木の盆踊りと同じ系統の隣村平野(ひらの)の盆踊りには1722年に盆踊り
に使用する太鼓の皮を張り替えたという記録がある。その他同じ系統の盆踊りを持つ近隣の村の記録から有東木でも近世のある時期から行
われていたことは確実である。
有東木盆踊りの特色
有東木盆踊りの特色は次の3点である。
- 男踊りと女踊りに分かれていて、曲も振りも異なっており、男女が混じって踊ることがない。
 |
 |
| 女踊り '01.8.15 |
男踊り '99.8.14 |
- 踊りの最中に、一人の男がトウロウと呼ばれる華麗な飾りを頭上に載せて踊る。
- 踊りの最後に送り出しといって、トウロウを先頭に全員が村の辻まで行進し、彩物につけていた
房などを焼いてしまう。
プログラムは?
1994年の例 1〜10は男踊り、@〜Lは女踊り
| 順番 |
題名 |
彩物と特徴 |
| 1 |
お富士参り |
開いた扇 ハオドリと呼ばれる |
| 2 |
名所の踊り(清盛様) |
閉じた扇、今約40センチの竹の棒 |
| 3 |
こきりこ踊り |
コキリコ、打ち方は4種類ある |
| 4 |
手拍子 |
手を3回打つ |
| @ |
お寺さま |
ササラ、同じ場所で前後するだけで廻らない |
| A |
お寺踊り |
開いた扇 |
| B |
三拍子踊り |
手拍子のみ |
| C |
こきりこ踊り |
コキリコ |
| D |
おおぎ車 |
開いた扇 |
| E |
おやま踊り |
開いた扇 |
| 5 |
浅間様 |
開いた扇 |
| 6 |
ひざびょうし |
本来は閉じた扇、今は約45センチの木刀 |
| 7 |
ささら踊り |
ササラ |
| 8 |
手拍子 |
手を5回打つ |
| |
余興 |
くじ引き大会、手踊り、スイカ割など |
| F |
しりふりささら |
ササラ、尻を振るような大げさな所作 |
| G |
ふりだし |
開いた扇、うしろに振るしょさ特徴 |
| H |
手拍子 |
4とほぼ同じ |
| I |
すりこぼし |
1と同じ |
| J |
やあれ |
3と同じ |
| K |
あや踊り |
閉じた扇、胸の前で手を交差させて扇を持ち替える所作を綾を取る、という。この時手を上に上げると男踊りの綾になってしまう。 |
| L |
しきは |
開いた扇、10によく似る。
これが終わるか終わらぬうちに男踊りの長刀が繰り込んでくる。 |
| 9 |
あや踊り |
扇、今は約4センチの竹の棒で綾を取る。 |
| 10 |
なぎなた踊り |
約56センチの長刀、この踊りだけは向かい合って打合う |
| |
送り出し |
15日の最後に行う。 |
男踊りの詩章
現行男踊りは10曲踊られているが、大正13年筆写の現存する最古の書留には
64曲が記載されている。詩章の上段大きい字は「ふるさと民族芸能ビデオガイドNo14有東木の盆踊」
から、下段の小さい字は「平野・有東木の盆踊り」の翻刻から引用した。
正確な詩章としてでなく、盆踊りにどんな意味の歌が歌われているのかを知りたくて記載した。
先にも記載のとおり先祖の霊を慰めるような意味の詩章はない。名所や武将、あるいは恋
を歌ったものなどである。
これらは有東木特有ではなく類似のものが全国にあるらしい。当時の京や江戸の流行歌が元になって
いるかららしい。
| @お富士参り |
A名所の踊り |
お富士参りのお若衆達が
御富士参りの御若衆達が
お富士ふじへ登らっしゃる
御富士富士へと登らっしゃる
なかのもんくとお山がよくば
中の文句と御山がよくば
ひとめ見るものぐんないを
一目見るもの郡内を
お山登りてぐんない見れば
御山登りて郡内見れば
さらしかけたよあさぬのを
晒しかけたよ麻布を
富士山に登ることを一種の成人儀礼と考えている
地方は多い。また郡内(山梨県)が出てくることから、
甲州より伝わった歌とも考えられる。
|
むかしたいらの清盛様は
昔平清盛様は
海の中へも島をもつかせ
海の中へも島をも築かせ
兵庫のみなととなされそろ
兵庫の港となされ候
つきたる島おば一里と申す
築きたる島をば一里と申す
ききしにまさりし名所でござる
聞きしにまさる名所で御座る
出船入船きりもない
出船入船きりも無い
これよりすま寺見物すれば
これより須磨寺見物すれば
むかしへいけの敦盛様は
昔平家の敦盛様は
いちの谷にてあそばせたまう
一の谷にて遊ばせ給う
青葉のふえとはこれとかや
青葉の笛とはこれとかや
清盛が経ヶ島を築いたという話と、平敦盛の青葉の笛
の話に題材をとった。 |
| B手びょうし |
Cこきりこおどり |
これのおせどのおかまたえのき
これのお背戸のおかまた榎
もとはぜにがね中こがね
元は銭金なか黄金
七里かがやくやら見事
七里輝くヤラ見事
ちょうしさかづき千そろい
銚子盃千揃い
さても見事なおさかもり
さても見事なお酒盛り |
松高き松高き里より見ゆる峯晴れて
松高き松高き里より見ゆる峯晴れて
嵐にしずむやまもとのくも
嵐に沈む山元のくも
やまもとのくも
山元のくも
秋に住む秋に住む
秋に澄む秋に澄む
水すさまじくさよふけて
水すさまじく小夜ふけて
月をしたしるおきつしらなみ
月したしる沖つ白波
おきつしらなみ
沖つ白波
あしのはにあしのはに
芦の葉に芦の葉に
かかりしゆきのふかきえに
掛かれし雪の深き江の
みぎはの色はゆうべともなし
水際の色あい夢ともなく
ゆうべともなし
夢ともなく
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| Dささら・女郎子の踊り |
Eひざびょうし |
こうしゅうかわち下山村に
甲州河内下山村に
ごけのむすめにおはなというて
後家の娘にお花と言うて
人にすぐれだてしゃでござる
人にすぐれ伊達者で御座る
たびはふなおりやつおのせきだ
足袋は船折り八ツ緒の雪駄
いかな若衆もよりてみる
如何な若衆も寄りて見る
こうしゅうへとおるたびびとまでも
甲州へ通る旅人までも
みのぶどまりで はやよけれども
身延泊りではやよけれども
こまを早めて下山へ
駒を早めて下山へ
お花こじょろはふかくさのつゆ
お花子女郎は深草の露
なびく若衆もきりもない
なびく若衆もきりもない |
音にきこえし頼光(らいこう)さまは[323KB]
音に聞こえし頼光様は
五人のつわものおんひきつれて
五人の強者御引き連れ
おん山さしてぞ いそがれる
御山さしてぞ急がれる
五人のつわものおんしょうぞくは
五人の強者御装束は
時にすずかねのうほらのかい
兜巾に鈴掛ノウ法螺の貝
こんごうづえおぞつきならべ
金剛杖をつきならべ
おにの岩谷つきければ
鬼の岩屋に来て見れば
ほどなくきじんをいちたいらめて
程なく鬼人を平らげて
みやこにみやげにもたれそろ
都に土産に持たれ候 |
| F浅間様 |
G手びょうし |
さてもするがに名所がござる
さても駿河の名所が御座る
せんげんお山に参りて見れば
浅間お山に参りて見れば
さても見事な宮づくり
さても見事な宮づくり
心静めて見物すれば
心静めて見物すれば
ししにぼたんにからえをほりて
獅子に牡丹に唐絵を彫りて
さてもこまかな宮づくり
さても細かな宮づくり
久能へ参りて見物すれば
久能へ参りて見物すれば
こがねづくりでやら見事
黄金づくりでヤラ見事
おもて御門でながめて見れば
表御門でながめて見れば
お江戸くだりのあの舟が
お江戸下りのあの舟が
ほかけてはしるやらみごと
帆かけて走るヤラ見事
清水のみなとでながめてみれば
清水湊で眺めて見れば
お富士お山にたごのうら
御富士御山に田子浦
うどがはまとはこれとかや
有度浜とはこれとかや
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富士のすそののひともとすすき
富士の裾野の一本薄
いつかほが出て実に実がいらず
いつか穂に出て実に実が入らず
富士のすそのに名所がござる
富士の裾野に名所が御座る
かごで水くむイヤこれ名所
籠で水汲むイヤこれ名所
岩にはいふじこささにあられ
岩に岩藤小笹に霰
富士の白雪朝日でとける
富士の白雪朝日で溶ける
とけて流れて三島につきやる
溶けて流れて三島に落ちる
三島じょろしうのイヨけしょの水
三島女郎衆の化粧水に |
| Hあやおどり |
Iなぎがたおどり |
かみからくんだるこんどのふねに
上から下る今度の舟に
あやおるひめごをちゃらりとのせて
綾織る姫をちゃらりと乗せて
いざややりませうわがくにへ
いざややりましょ我が国へ
かみからくんだるしげどうのゆみ
上から下る重藤弓
ちゃちゃする若衆にちゃらりともたせ
ちゃちゃする若衆にちゃらりともたせ
あのなかじゅくもねらしょうもの
あの中しくをねらしょもの
かみからくんだるきょうあみがさを[413KB]
上から下る京編笠を
忍びとのごにちゃらりとめして
忍びの殿御にちゃらりと着せて
いざ其の夜をまち申す
いざやその夜を待ち申す |
音にきこえしかねひらどのは[394KB]
音に聞こえし兼平殿は
横田が原にていくさをなさる
横田原にて戦をなさる
時によせたはじゅうまんよきを
時に寄せては十万余騎を
いちのきどまでのやおしよせて
一の木戸までノヤ押し寄せて
えびらやなぎでのやうちたたき
えびらやなぎノヤ打ち叩き
ときのこえをぞあげにけり
ときの声をぞ上げににけり
ものになりたやつわものなれば
ものに慣れたる強者なれば
横田が原にて敵も見方も東西に
横田原にて敵も見方も東西に
火花をちらしてあげにけり
火花を散らして上げにけり
それをかねひらのや見るよりも
それを兼平ノヤ見るよりも
おおてをひらいてのやひとつうて
大手を開きかき合わせ
そしものぐんびょうのやひとときに
さしもの軍兵ノヤ一の時に
みやまおろしにのやもまれつつ
深山颪にノヤ揉まれつつ
秋のもみじとちらしけり
秋の紅葉と散りにけり |
国の重要無形民俗文化財指定
国の文化財保護審議会は平成11年11月19日、重要有形民俗文化財など54件を答申し、本県から重要無形文化財2件
と史跡2件が指定された。重要無形民俗文化財が「有東木の盆踊り」と「大江八幡神社の御船行事」(榛原群相良町大江)..
..。
引用:静岡新聞1999年11月19日(夕刊)
有東木盆踊りの沿革
'03.8.15
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現在行われている盆踊りは、昭和13年を最後にいったん中止された。それは翌14年の盆前に、有東木から大陸に出征中の兵士の
戦死の報が届き、有東木最初の戦死者が出たというので、村中がびっくりしてその年の盆踊りをやめてしまったからである。そして戦後
間もなく復活しようという動きが起こり、宮原喜之助、白鳥広吉らが中心になり、広吉の家に集まっては練習した。女衆の踊りは皆が案
外よく記憶していて、復活にもさしたる苦労はなかったという。戦後の第一回目が何年だったかはどうも正確な記憶がない。24年に行
われていたことは、青年団の記録で明らかで、しかもそこには「本年度復興した」という書きぶりは見られないので、23年までには戦
前のような形で復興されたとみてよい。
この盆踊りは男踊りと女踊りとにわかれ、男女混ざっての踊りが無いのが一つの特色となっている。しかも踊りの場は現在では東雲寺の
境内のみであるが、大正10年まで女踊りはニシ(江戸時代に名主を務めた望月家の屋号)の家の外庭で踊り始められ、「お館様」
「三ツササラ」の二曲を踊ってから寺に向かい、男達と合流した。大正10年という年代がはっきりしているのは、この年に始めて電気
が通りニシの家で蓄音機を買ったので、それを聞いてから寺に行ったという記憶が鮮やかだからである。その年を最後に、女踊りも寺だ
けで行われるようになった。
引用:平野・有東木の盆踊り
張り笠(燈籠)'01.8.15
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・・・ところが、それほど生活に溶け込んでいたはずの盆踊りも、現在にお
いてはかっての唯一の娯楽という地位を全く失い、「保存する」という言葉で表
現されるような状態に落ちいってしまった。
盆踊りの場において、現代風のレコードがかかると若者が一斉に輪を作り、師匠
さん達が出てくると年輩者しか並ばぬ、といった光景が見られる。若い者は今風
の手踊りばかり熱心だ、という歎きの声も聞かれる。
だがかってこの盆踊りが村にとり入れられた時、新しぶりを歎いた古老がきっと
居たに違いない。これこそ流行というものであって、古風を「保存」することは
特別の意識を持たなければかなわぬことである。生活のあり方が以前と大きく変
わってしまった現在、かっての盆踊りが果たしていた役割を再現させることはで
きるはずがない。といういことは、やはり地域に育った者がそこに生まれたとい
う自覚と、そしてそれを伝えてきた祖先の生活をふりかえるという目的をもって、
後世に伝えていくという責任感に頼るしか、盆踊りを維持する方法はないと思わ
れる。しかし、それだけでは楽しくない。
文化財の「保存」ということを必ずしも堅苦しく考える必要はないのである。き
ちんとした型を伝えることは絶対の条件であるが、それと並んで盆踊りは楽しい
ものであったということを思い返したい。盆踊りは元来が若者の恋の場でもあっ
たではないか。山村にひっそり伝わる古式の盆踊りに、再生の血を通わせること
ができるのは、やはり若者の熱意しかない。
引用:平野・有東木の盆踊り