盆踊り
国の重要無形民俗文化財
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最終更新日  2007.8.18


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  • 「盆踊り」って何?
    '03.8.15
    音頭
    「盆踊り」=「祖先の供養を目的とする宗教行事」、そんな先入観を持っていないだろうか。何故なら、そもそも盆とは 「祖先の霊を祭る行事」であるから、その名の付いた踊りはそれと密接な関係があるだろうと思えること、また踊る場所がお寺であること、 あるいは歌が耳で聞いただけでは聞き取れないような歌い方、つまりお経かそれに準じたものでも歌っているように聞こえること、などの 理由からである。
    ところが意外なことに宗教色はほとんどないのである。
    第一に宗教行事であれば必ず姿を見せる和尚さんの姿を見ることがない。第二に、踊りの歌詞に祖先の霊を慰めるような 文句が全くないのである。それどころか、「甲州の下山村にお花と言う名前の綺麗な娘がいて、若者は用もないのに立ち寄る・・・」 などという不謹慎な歌詞を仏様の前で歌っているのである。宗教色があるといえば、盆踊り最後の「送り出し」くらいだけではない だろうか。
    では盆踊りとは何か。それは娯楽である。特別な娯楽のなかった数百年前、若者がその当時流行っていた歌に振りをつけ、 小道具をもって踊り始めた。当時はそれが時代の先端を行く事だったのかもしれない。当時のお年寄りは毛嫌いした事かもしれない。 しかし長く続ける間に夏の夜になくてはならないビックイベントとして定着してきたのではないか。
    そう考えると今まで絶えることなく続いてきたのもうなずけるし、身近なものに感じられてくる。

    盆行事
    「盆踊り」といえば当然のことながらその「踊り」だけに関心の目が向けられがちである。しかしそこに生活している 者からすると「盆踊り」は「盆」という行事の中の一部ではあるが「盆踊り」が全てではない。盆行事の頂点として「盆踊り」はあるけ れども、祇園、道刈り、お墓の掃除、家の仏壇の飾りつけなどをしながら徐々に「盆」を迎えるという気分が高まり、14日朝の「お墓 参り」をして「盆」だという気分になる。
    したがって「盆踊り」は一連の盆行事の中の一つとして捉えるべきであるし、長く伝承されてきた理由もそのあたりにある 気がするのである。
    (以下、文と写真は「ふるさと民族芸能ビデオガイドNo14有東木の盆踊り(静岡市教育委員会)」による。)

    盆行事
    7/14,15 祇園祭り
    「祇園祭りが歌い初め」と言って、それから公然と盆踊りの歌を歌い始めてよいことになっていた。
    8/6
    8/8
    8/10
    8/12
    踊り練習 練習
    寺の境内で練習が行われる。練習は夕方6時頃から始まる。寄せ太鼓が打たれると、三々五々人々が集まり、まず 男踊りの「お富士参り」から練習が始まる。しばらく踊ってから女踊りと交替するが、基本的には本番の日と同じ内容で練習を していく。合間には当番組の用意した酒やつまみが出される。

         道刈り
    かつて峠を越えた甲州との行き来が盛んだった頃は、その峠までの道の草を刈るなどの道の整備をしたものだが、 現在は墓掃除と、近い所の道の草刈りをする程度となった。この行事は、盆に帰ってくる祖先の霊の通り道を整備し清めるという 意味を持っていた。
    8/14
    墓参り 墓参り
    朝7時頃から墓参りに行く。ナスやキュウリを賽の目に小さく切り、洗米と混ぜたものを持参し、 墓にまく。まるで縁日のようにゾロゾロと人がつらなり、墓地への道が賑わう。遠くから見ると線香の 煙で霞がかかったように見える。

    8/14
    午後
    施餓鬼
    (せがき)
    施餓鬼
    寺において施餓鬼が行われる。午後1時に開始。住職の読経の途中、突然何人かが飛び出して吊る してある五色の施餓鬼旗をむしりとる。これは畑にさしておくと虫よけになるという。このあと、全員 で境内の忠魂碑に参り、本堂に戻って当番が用意した素麺をいただく。

    8/14
    盆踊り
    夕刻5時半頃、町内放送が「当番組、相組からお知らせします。今夜の盆踊りは6時から始ま ります。楽しいメニューをたくさん用意しておりますので、皆さまお出かけください」と知らせる。
    男踊り10曲、女踊り13曲が踊られる。途中余興と籤引き大会、手踊り(普通の盆踊り)が入る。 11時30分頃までやる。
    8/15
    盆踊り
    男踊り女踊りとも曲目は14日と同じ。やはり途中余興が入る。
    違うのは最後に送り出しをすることである。送り出しの列は先頭に太鼓、続いて師匠、中踊りの燈篭、 さらに村民みんなが従って村の辻に向かう。コキリコ、ササラなどの彩り物に付けてあった紙の房をとり、 積み上げて火をつけ、燈篭に張ってあった紙もはがして一緒に燃やす。それから境内に戻り盆踊りは終了す る。だいたい0時頃になる。
    8/16
    精霊送り 精霊送り
    各家に飾ってあった盆棚を川に納める。岸のへりに供え物等を並べ、火を焚き、線香をあげ、拝んで帰る。

    8/16
    午後
    念仏講 念仏講
    午後から寺の本堂で百万編の念仏がある。始まる前に各家からは、オマルと称するダンゴ(米の粉をま るめて蒸したもの)を、境内の子安観音に供えに来る。 そして、本堂では、住職が太鼓に合わせ大般若経を読み、そのま わりで大きな珠をまわす。その時の掛け声は 「ナーブツ、ナーブツ、ナンマイダ、ナンマイダ」という。長い数珠の中に大きな珠と中くらい珠が各一つ あり、それが自分の前に来るとおしいだく。約40分もこれが続く。
    そのあと、子安観音様に供えられたオマルを本堂から撒く 。これをオマルマキと称している。
    これで盆の行事は一切終了する。

    お盆の由来
    '03.8.15
    送り出し
    一年に一度のお盆祭りは、亡きご先祖様の御霊(みたま)をお迎えしてご 供養する祭日で、これは国が定めた祝祭日ではなく、日本風土の中にしみこんでいるおまつりです。
    この盆という言葉は、インドの古い言葉である梵語(ぼんご)(サンスクリット語) の『ウランバナ』を漢字に写した『盂蘭盆(うらぼん)』の最後の一字をとったものであ る、と言われています。
    この行事の由来は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』というお経にとかれています。 亡き母のために目連尊者(もくれんそんじゃ)が修行僧に対し衣食を供養されたのが始ま りですが、それは、雨季の修行期間の最後の日である七月十五日であったと伝えられています。
    インドでは、四月から七月迄の雨季のあいだは、修行僧は外出が禁じられ、屋内で修行することになっていました。これを 『禁足(きんそく)』と申します。現代でも、本山や専門僧堂(地方にある修行道場)等 でこの『禁足』が受け継がれています。
    明治になって新暦(太陽暦)が採用されますと、新暦の七月十五日では、日本人の大部分にとってはとても都合の悪い時期で ありました。なぜなら、当時の国民の八割近くは農業に従事していたからです。七月は、農家にとって一年中でもっとも忙しい 農繁期となり、ゆっくりとご先祖さまのご供養ができませんでした。ですから八月十三日から十六日までの、月遅れのお盆に 多く行われるようになったのです。
    (2004.8.18 資料『お盆の心』発行:大本山總持寺出版部より)

    施食会(せじきえ)の意義
    '03.8.16
    念仏講
    有東木では近年まで『施餓鬼(せがき)』と呼んでいました。 平成十六年八月十四日の『施餓鬼』において、和尚様が東雲寺の属する宗派では 『施食会(せじきえ)』と呼ぶことに統一したこと、『お盆の心』にも 施食会について解説がある、とお話がありましたのでここに掲載します。
    施食会は、本来一年中行われている法要ですが、お盆の法要の一環として行われることが多い行事です。
    施食会の由来は、お釈迦様の十大弟子の一人、阿難尊者(あなんそんじゃ) が、無縁の精霊(しょうりょう)に供養すべく棚を設け、山海の食物を供え、 多くの僧によって回向したのが始まりです。
    現在では、ご先祖様への報恩供養として営まれています。私たちは、ご先祖さまをはじめとした多くの精霊に供養する 施食会を通して、地球上の全ての生き物に支えられていることを一度ゆっくり考えてみたいものです。
    (2004.8.20 資料『お盆の心』発行:大本山總持寺出版部より)

    いつからやってるの?
    '03.8.15
    女踊り
    何百年も前からという言い方をするけれど、正確にはいつから始まったのか知りたいと思う。しかし有東木にはそれを 示す資料は全く存在しない。盆踊りの詩章の書き留めも明治以後のものしか残っていない。
    この問いは村 の起源とも関連する。有東木の最も古い資料は1604年の検地帳である。この時、有東木は23戸の村として 存在していた。この時盆踊りがあったか定かではない。有東木の盆踊りと同じ系統の隣村平野(ひらの)の盆踊りには1722年に盆踊り に使用する太鼓の皮を張り替えたという記録がある。その他同じ系統の盆踊りを持つ近隣の村の記録から有東木でも近世のある時期から行 われていたことは確実である。

    有東木盆踊りの特色
    有東木盆踊りの特色は次の3点である。
    1. 男踊りと女踊りに分かれていて、曲も振りも異なっており、男女が混じって踊ることがない。
       
      女踊り 男踊り
      女踊り '01.8.15 男踊り '99.8.14
    2. 踊りの最中に、一人の男がトウロウと呼ばれる華麗な飾りを頭上に載せて踊る。
    3. 踊りの最後に送り出しといって、トウロウを先頭に全員が村の辻まで行進し、彩物につけていた 房などを焼いてしまう。

    プログラムは?
    1994年の例         1〜10は男踊り、@〜Lは女踊り
    順番 題名 彩物と特徴
    お富士参り 開いた扇     ハオドリと呼ばれる
    名所の踊り(清盛様) 閉じた扇、今約40センチの竹の棒
    こきりこ踊り コキリコ、打ち方は4種類ある
    手拍子 手を3回打つ
    @ お寺さま ササラ、同じ場所で前後するだけで廻らない
    A お寺踊り 開いた扇
    B 三拍子踊り 手拍子のみ
    C こきりこ踊り コキリコ
    D おおぎ車 開いた扇
    E おやま踊り 開いた扇
    浅間様 開いた扇
    ひざびょうし 本来は閉じた扇、今は約45センチの木刀
    ささら踊り ササラ
    手拍子 手を5回打つ
       余興 くじ引き大会、手踊り、スイカ割など
    F しりふりささら ササラ、尻を振るような大げさな所作
    G ふりだし 開いた扇、うしろに振るしょさ特徴
    H 手拍子 4とほぼ同じ
    I すりこぼし 1と同じ
    J やあれ 3と同じ
    K あや踊り 閉じた扇、胸の前で手を交差させて扇を持ち替える所作を綾を取る、という。この時手を上に上げると男踊りの綾になってしまう。
    L しきは 開いた扇、10によく似る。
    これが終わるか終わらぬうちに男踊りの長刀が繰り込んでくる。
    あや踊り 扇、今は約4センチの竹の棒で綾を取る。
    10 なぎなた踊り 約56センチの長刀、この踊りだけは向かい合って打合う
       送り出し 15日の最後に行う。

    男踊りの詩章
    現行男踊りは10曲踊られているが、大正13年筆写の現存する最古の書留には 64曲が記載されている。詩章の上段大きい字は「ふるさと民族芸能ビデオガイドNo14有東木の盆踊」 から、下段の小さい字は「平野・有東木の盆踊り」の翻刻から引用した。
    正確な詩章としてでなく、盆踊りにどんな意味の歌が歌われているのかを知りたくて記載した。 先にも記載のとおり先祖の霊を慰めるような意味の詩章はない。名所武将、あるいは を歌ったものなどである。
    これらは有東木特有ではなく類似のものが全国にあるらしい。当時の京や江戸の流行歌が元になって いるかららしい。
    @お富士参り A名所の踊り
    お富士参りのお若衆達が
    御富士参りの御若衆達が
    お富士ふじへ登らっしゃる
    御富士富士へと登らっしゃる
    なかのもんくとお山がよくば
    中の文句と御山がよくば
    ひとめ見るものぐんないを
    一目見るもの郡内を
    お山登りてぐんない見れば
    御山登りて郡内見れば
    さらしかけたよあさぬのを
    晒しかけたよ麻布を

    富士山に登ることを一種の成人儀礼と考えている 地方は多い。また郡内(山梨県)が出てくることから、 甲州より伝わった歌とも考えられる。

    むかしたいらの清盛様は
    昔平清盛様は
    海の中へも島をもつかせ
    海の中へも島をも築かせ
    兵庫のみなととなされそろ
    兵庫の港となされ候
    つきたる島おば一里と申す
    築きたる島をば一里と申す
    ききしにまさりし名所でござる
    聞きしにまさる名所で御座る
    出船入船きりもない
    出船入船きりも無い
    これよりすま寺見物すれば
    これより須磨寺見物すれば
    むかしへいけの敦盛様は
    昔平家の敦盛様は
    いちの谷にてあそばせたまう
    一の谷にて遊ばせ給う
    青葉のふえとはこれとかや
    青葉の笛とはこれとかや

    清盛が経ヶ島を築いたという話と、平敦盛の青葉の笛 の話に題材をとった。
    B手びょうし Cこきりこおどり
    これのおせどのおかまたえのき
    これのお背戸のおかまた榎
    もとはぜにがね中こがね
    元は銭金なか黄金
    七里かがやくやら見事
    七里輝くヤラ見事
    ちょうしさかづき千そろい
    銚子盃千揃い
    さても見事なおさかもり
    さても見事なお酒盛り
    松高き松高き里より見ゆる峯晴れて
    松高き松高き里より見ゆる峯晴れて
    嵐にしずむやまもとのくも
    嵐に沈む山元のくも
    やまもとのくも
    山元のくも
    秋に住む秋に住む
    秋に澄む秋に澄む
    水すさまじくさよふけて
    水すさまじく小夜ふけて
    月をしたしるおきつしらなみ
    月したしる沖つ白波
    おきつしらなみ
    沖つ白波
    あしのはにあしのはに
    芦の葉に芦の葉に
    かかりしゆきのふかきえに
    掛かれし雪の深き江の
    みぎはの色はゆうべともなし
    水際の色あい夢ともなく
    ゆうべともなし
    夢ともなく
    Dささら・女郎子の踊り Eひざびょうし
    こうしゅうかわち下山村に
    甲州河内下山村に
    ごけのむすめにおはなというて
    後家の娘にお花と言うて
    人にすぐれだてしゃでござる
    人にすぐれ伊達者で御座る
    たびはふなおりやつおのせきだ
    足袋は船折り八ツ緒の雪駄
    いかな若衆もよりてみる
    如何な若衆も寄りて見る
    こうしゅうへとおるたびびとまでも
    甲州へ通る旅人までも
    みのぶどまりで  はやよけれども
    身延泊りではやよけれども
    こまを早めて下山へ
    駒を早めて下山へ
    お花こじょろはふかくさのつゆ
    お花子女郎は深草の露
    なびく若衆もきりもない
    なびく若衆もきりもない
    音にきこえし頼光(らいこう)さまは[323KB]
    音に聞こえし頼光様は
    五人のつわものおんひきつれて
    五人の強者御引き連れ
    おん山さしてぞ いそがれる
    御山さしてぞ急がれる
    五人のつわものおんしょうぞくは
    五人の強者御装束は
    時にすずかねのうほらのかい
    兜巾に鈴掛ノウ法螺の貝
    こんごうづえおぞつきならべ
    金剛杖をつきならべ
    おにの岩谷つきければ
    鬼の岩屋に来て見れば
    ほどなくきじんをいちたいらめて
    程なく鬼人を平らげて
    みやこにみやげにもたれそろ
    都に土産に持たれ候
    F浅間様 G手びょうし
    さてもするがに名所がござる
    さても駿河の名所が御座る
    せんげんお山に参りて見れば
    浅間お山に参りて見れば
    さても見事な宮づくり
    さても見事な宮づくり
    心静めて見物すれば
    心静めて見物すれば
    ししにぼたんにからえをほりて
    獅子に牡丹に唐絵を彫りて
    さてもこまかな宮づくり
    さても細かな宮づくり
    久能へ参りて見物すれば
    久能へ参りて見物すれば
    こがねづくりでやら見事
    黄金づくりでヤラ見事
    おもて御門でながめて見れば
    表御門でながめて見れば
    お江戸くだりのあの舟が
    お江戸下りのあの舟が
    ほかけてはしるやらみごと
    帆かけて走るヤラ見事
    清水のみなとでながめてみれば
    清水湊で眺めて見れば
    お富士お山にたごのうら
    御富士御山に田子浦
    うどがはまとはこれとかや
    有度浜とはこれとかや
    富士のすそののひともとすすき
    富士の裾野の一本薄
    いつかほが出て実に実がいらず
    いつか穂に出て実に実が入らず
    富士のすそのに名所がござる
    富士の裾野に名所が御座る
    かごで水くむイヤこれ名所
    籠で水汲むイヤこれ名所
    岩にはいふじこささにあられ
    岩に岩藤小笹に霰
    富士の白雪朝日でとける
    富士の白雪朝日で溶ける
    とけて流れて三島につきやる
    溶けて流れて三島に落ちる
    三島じょろしうのイヨけしょの水
    三島女郎衆の化粧水に
    Hあやおどり Iなぎがたおどり
    かみからくんだるこんどのふねに
    上から下る今度の舟に
    あやおるひめごをちゃらりとのせて
    綾織る姫をちゃらりと乗せて
    いざややりませうわがくにへ
    いざややりましょ我が国へ
    かみからくんだるしげどうのゆみ
    上から下る重藤弓
    ちゃちゃする若衆にちゃらりともたせ
    ちゃちゃする若衆にちゃらりともたせ
    あのなかじゅくもねらしょうもの
    あの中しくをねらしょもの
    かみからくんだるきょうあみがさを[413KB]
    上から下る京編笠を
    忍びとのごにちゃらりとめして
    忍びの殿御にちゃらりと着せて
    いざ其の夜をまち申す
    いざやその夜を待ち申す
    音にきこえしかねひらどのは[394KB]
    音に聞こえし兼平殿は
    横田が原にていくさをなさる
    横田原にて戦をなさる
    時によせたはじゅうまんよきを
    時に寄せては十万余騎を
    いちのきどまでのやおしよせて
    一の木戸までノヤ押し寄せて
    えびらやなぎでのやうちたたき
    えびらやなぎノヤ打ち叩き
    ときのこえをぞあげにけり
    ときの声をぞ上げににけり
    ものになりたやつわものなれば
    ものに慣れたる強者なれば
    横田が原にて敵も見方も東西に
    横田原にて敵も見方も東西に
    火花をちらしてあげにけり
    火花を散らして上げにけり
    それをかねひらのや見るよりも
    それを兼平ノヤ見るよりも
    おおてをひらいてのやひとつうて
    大手を開きかき合わせ
    そしものぐんびょうのやひとときに
    さしもの軍兵ノヤ一の時に
    みやまおろしにのやもまれつつ
    深山颪にノヤ揉まれつつ
    秋のもみじとちらしけり
    秋の紅葉と散りにけり

    国の重要無形民俗文化財指定
    国の文化財保護審議会は平成11年11月19日、重要有形民俗文化財など54件を答申し、本県から重要無形文化財2件 と史跡2件が指定された。重要無形民俗文化財が「有東木の盆踊り」と「大江八幡神社の御船行事」(榛原群相良町大江).. ..。
    引用:静岡新聞1999年11月19日(夕刊)

    有東木盆踊りの沿革
    '03.8.15
    スイカ割り
    現在行われている盆踊りは、昭和13年を最後にいったん中止された。それは翌14年の盆前に、有東木から大陸に出征中の兵士の 戦死の報が届き、有東木最初の戦死者が出たというので、村中がびっくりしてその年の盆踊りをやめてしまったからである。そして戦後 間もなく復活しようという動きが起こり、宮原喜之助、白鳥広吉らが中心になり、広吉の家に集まっては練習した。女衆の踊りは皆が案 外よく記憶していて、復活にもさしたる苦労はなかったという。戦後の第一回目が何年だったかはどうも正確な記憶がない。24年に行 われていたことは、青年団の記録で明らかで、しかもそこには「本年度復興した」という書きぶりは見られないので、23年までには戦 前のような形で復興されたとみてよい。
    この盆踊りは男踊りと女踊りとにわかれ、男女混ざっての踊りが無いのが一つの特色となっている。しかも踊りの場は現在では東雲寺の 境内のみであるが、大正10年まで女踊りはニシ(江戸時代に名主を務めた望月家の屋号)の家の外庭で踊り始められ、「お館様」 「三ツササラ」の二曲を踊ってから寺に向かい、男達と合流した。大正10年という年代がはっきりしているのは、この年に始めて電気 が通りニシの家で蓄音機を買ったので、それを聞いてから寺に行ったという記憶が鮮やかだからである。その年を最後に、女踊りも寺だ けで行われるようになった。
    引用:平野・有東木の盆踊り

    盆踊りの背景
    '99.8.14
    男踊り
      現在では平野と有東木にしか残されれていない古風な盆踊りは、かってはこ の安倍川上流域の村々で盛んに行われていたのである。
      ではそれを支えてきたものは何であったのか。一つは、先祖の霊を迎え、そして 送り出すという、日本の神まつりの形式にのっとった信仰的儀式として、どうし てもやらずにはすまされない心情があったのである。
      次に考えられるのは、右の信仰と表裏一体をなすところの豊作に対する強い願望 である。盆踊りといっても、そこには仏教的な匂いは全くなく、好んで歌われた 詞章の中には恋の歌や豊作を喜ぶものがきわめて多い。中でも「世の中踊り」は、 世の中という言葉が一般に稲の出来を示していたことからわかるように、豊作を 予祝するものであった。そしてさらには「世がうち直る」という表現があるよう に、社会全般の改革を願う、より広い願いへと発展していく。また恋の歌が非常 に多いのは、それが庶民の感情の代弁であったと同時に、盆踊りの夜に男女の語 らいが広く行われたであろうことから、右の豊作につらなると考えられた、一種 の感情呪術的な一面をもっていたのである。わかりやすくいえば、人間の生殖行 為が自然の豊かな稔りへと通じていくという信仰である。
      そしてもうひとつ見落とせないのは、この盆踊り自体が村人にとっては楽しくて ならない最大の娯楽であったことである。盆踊りを待ちかねて盆が来る遥か以前 より山畑で練習をしたという村の古老の話は、月並みな言い方ではあるがこれと いった娯楽に乏しかった山村の生活の中で、盆踊りがまさに一年分のエネルギー を一気に放出するためのおそらく唯一の機会であったことをうかがわせる。その 中で歌上手、踊り上手の血筋が尊重され、彼らは強い自覚と責任感をもってこの 踊りの伝承と指導に努めてきたのである。有東木でスジと呼ばれたそうした家筋 は、日常的には必ずしも村内で優位にあったわけではない。しかし盆というハレ の日には、時分達の技を思う存分発揮できたわけで、盆踊りこそ日頃の社会秩序 に全くかかわらずに個人の能力が発揮され、また評価される得難い機会であった のである。これが楽しくないはずはなかった。
    引用:平野・有東木の盆踊り

    盆踊りの将来
    張り笠(燈籠)'01.8.15
    張笠
    ・・・ところが、それほど生活に溶け込んでいたはずの盆踊りも、現在にお いてはかっての唯一の娯楽という地位を全く失い、「保存する」という言葉で表 現されるような状態に落ちいってしまった。
    盆踊りの場において、現代風のレコードがかかると若者が一斉に輪を作り、師匠 さん達が出てくると年輩者しか並ばぬ、といった光景が見られる。若い者は今風 の手踊りばかり熱心だ、という歎きの声も聞かれる。
    だがかってこの盆踊りが村にとり入れられた時、新しぶりを歎いた古老がきっと 居たに違いない。これこそ流行というものであって、古風を「保存」することは 特別の意識を持たなければかなわぬことである。生活のあり方が以前と大きく変 わってしまった現在、かっての盆踊りが果たしていた役割を再現させることはで きるはずがない。といういことは、やはり地域に育った者がそこに生まれたとい う自覚と、そしてそれを伝えてきた祖先の生活をふりかえるという目的をもって、 後世に伝えていくという責任感に頼るしか、盆踊りを維持する方法はないと思わ れる。しかし、それだけでは楽しくない。
    文化財の「保存」ということを必ずしも堅苦しく考える必要はないのである。き ちんとした型を伝えることは絶対の条件であるが、それと並んで盆踊りは楽しい ものであったということを思い返したい。盆踊りは元来が若者の恋の場でもあっ たではないか。山村にひっそり伝わる古式の盆踊りに、再生の血を通わせること ができるのは、やはり若者の熱意しかない。
    引用:平野・有東木の盆踊り

    盆踊りの運営
    '03.8.15
    2004年の盆踊りが、『青年団から当番組に変わって15年経つ』、とのお話が 町内会長からありました。最初の年を1年目とすると、1989年(平成元年)まで青年団が 行い、1990年(平成2年)から当番組が行うようになったことになる。
    団員の減少に伴い青年団による運営が困難になり、町内の組が輪番で運営するようにな ったのは平成の始めである。組は6組ある。したがって6年に一度当番になる。盆踊りは2夜 行うし、規模も大きい。このため1組では大変であるため相組が協力する。 シート張りと本日の夜店(生ビール、焼鳥、金魚すくい等)を相組が担当する。
    近年、組の戸数減や高齢化により、現在の当番組制による運営も近い将来困難になること が懸念されている。('04.8.28)


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